いまからおよそ30年前の1995年、中米のコスタリカに行った時のはなし。
Endless Summerという映画に魅せられて、コスタリカに興味をもった。
国名の由来を調べてみたら黄金の海岸という意味だった。
当時働いていた自由が丘のスキーショップで来店した日系カナディアンのマキトという青年と仲良くなった。10代後半のマキトは「俺スキーはしないけど日本でサーフィンしたいんだよ。」と言ってきたので千葉のサーフポイントに連れていく約束をした。
そこから俺は休みになるとマキトと海に行くようになり仲良くなった。マキトは若いのに色々な経験をしていて、バンクーバーアイランドのトフィーノでサーフィンを覚え、バリで1か月バックパッカーをしながら波乗りをしたり、1年ほど前にはコスタリカでテント生活をしながらサーフィンをしていた話をしてくれた。
コスタリカはビーチブレイクが中心だけどサーフポイントがたくさんあって混雑とは無縁の場所。ジャングルがすぐ近くにあって野生動物が身近だったこと、そして軽犯罪はあるけど治安もそれほど悪くないこと。それほどという言葉が気になったので聞いてみたら、サーフィンを終えて海から上がってきたらテントの中のものをすべて盗まれてしまったそうだ。幸いパスポートやメインの財布は友人の家に預けていたので助かったそうだ。カナダに帰るときには海パンの上にベッドシーツを体じゅうに巻き付けてミシュランのような恰好で帰国したそうだ。
そんなアドベンチャーな話を聞いていたら凄く興味が湧いたので、友人と二人で行ってみることにした。経由地のロサンゼルスにつくとレンタカーを借りてハンティントンビーチを目指した。カルフォルニアでサーフボードを買ってコスタリカに持っていこうとおもったからだ。サーフボードを購入すると、そのボードでハンティントンビーチのピアでサーフィンを楽しんだ。ここは僕にとってサーフィンという言葉を連想するに一番インパクトのある場所だと思う。夕方のフライトに間に合わせるために俺は再びロスアンジェルス空港に戻りコスタリカを目指した。
コスタリカのサンホセ空港に到着するとレンタカーを借りてレンタカー屋の兄さんに海の方を指さしてもらって車を走らせた。夜だったので不安になりながら2時間(100㎞)ドライブしてハコー(Jaco)という町にたどり着いた。
ハコーは空港から一番近いサーフタウンだとマキトが言っていたのを思い出した。町を走っているとたまたまVacancyのサインを見つけたのでそこに宿をとることにした。ナビも地図もなく道路標識だけを頼りに行けたので安堵感と達成感でとても充実した気分だった。俺が旅の高揚感を感じるのはこういう時だ。
朝、目を覚ますと、ハコーやヘルモサビーチをチェック、ハコーは優しい波質だったがヘルモサはリップの厚いパワーのある波質だった。この波を二日間堪能したのち、 ハコーからマキトがキャンプをしていたというドミニカルという村に向かった。
4WD でないと走れないほどの悪路を走破した。途中でエスタリロスというポイントを偶然見つけた。波が小さくてだれもサーフィンしていなかったが素晴らしいロケーションだし、お腹が空き始めていたのでビーチにあるレストランで食事をすることにした。
レストランのウェイターがロータイドになれば波が上がるからもう一時間待っていてみろと言うので半信半疑でゆっくりしていたら胸~肩くらいのファンウェーブがブレイクし始めたではないか!とっさにトランクスに着替えると海にジャンプした。優しい波とヤシの木に囲まれた南国のビーチブレイクの光景は30年経ったいまでも鮮明に覚えている。ただ、海からあがってこのポイントの裏にある川にワニが泳いでいるのを目撃してしまった。
美しい自然と雰囲気が気に入ったのでここの近くで1泊した。そして俺たちは再びドミニカルに向かった。ハコーからドミニカルはおよそ100㎞、しかしほとんどが舗装されていない悪路だったのでかなり時間を要した。悪路の横の草むらにはたくさんのイグアナ潜んでいて時々彼らと目が合う。
ドミニカルは数件の宿とレストランがあるちいさな村だった。波はヘルモサのようにパワーのある波で中級者以上であれば楽しめる波だった。質素だけど自然とサーフィンが調和するコスタリカという国は国名の「黄金海岸」という名のとおり、素晴らしいサーフディスティネーションだった。
その後も2度ほど再訪して北部のウィッチーズロックやプラヤネグラなどにも行ってみた。どこも素晴らしいポイントだった。しかし、他にもカリブ海側やパボネスというとんでもなく長いレフトのポイントもある。またコスタリカ以外にも中米にはパナマやニカラグアなどにもたくさんのサーフポイントがあると聞く、これを書いていたらまた旅に出たくなってしまった自分がいる。
PuraVida
写真:Felipe Sanchez Photo