
A-Frame Surf From Hikkaduwa
1999年Sri Lanka Hikkadua初のサーフショップから誕生したオリジナルレーベル
世界中を旅してきたインスピレーションでウェアを展開しています

Pic Up
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California2 バンブーマグカップ
販売元:aframe-surf通常価格 ¥2,200通常価格単価 / あたり -
California2 Tote Bag
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Very euro Tee
販売元:aframe-surf通常価格 ¥4,800通常価格単価 / あたり -
California2 SS
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Maneuver LS sumikuro
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Maneuver LS Light Purple
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Maneuver LS White
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Very euro Sweat
販売元:aframe-surf通常価格 ¥7,800通常価格単価 / あたり
Travel Blog
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ポルトガル編
今回は2005年に行ったポルトガルへの旅のお話 日本からポルトガルまでは直行便がないため、ポルトガルの首都リスボンについたのは、日本を出発して2日後の夜中だった。今回の目的地は首都リスボンからタクシーで1時間ほど北上したペニーシェという町。あらかじめ日本から予約をしていたホテルに着いたのは夜中の3時。長時間の移動で疲れていたこともあって、この日は歯も磨かずに倒れるように寝てしまった。翌朝10時、まぶしい太陽の光で目をさます。部屋の窓から外を見下ろすとそこには、真っ白なビーチと、オレンジ色の屋根をつけた真っ白な家々、そして石畳の道路が見えた。既にビーチにはたくさんのヨーロピアンたちが日光浴を楽しんでいた。出発前に想像していたヨーロッパのビーチリゾートそのままだった。朝ごはんのフランスパンサンドイッチを食べ、歩いて10分くらいのところにあるペニーシェサーフキャンプのオフィスに情報を聞きに出かけた。 出迎えてくれたのは社長のリオとフェルナルド。 リオは体がでかいがメローで優しいそうな性格、生まれも育ちもペニーシェで、本業はポルトガルでは数少ないシェイパーの一人だ。今回はこの二人が、僕のサポートをしてくれることになった。2日後位からサイズアップしてくるという。帰る日までには良い波に乗りそうな気がした。この日はペンションの目の前であるビーチブレイクでサーフすることにした。 波は腹サイズ、水温は3mmジャージでちょうど良いくらい。 波質は千葉のビーチブレイクのようだけど、海から見えるロケーションはVery Europeanだった。 2日目も朝早くから波チェックに出るがやはり波が小さく、風もオンショアにまわってノーサーフ状態。せっかくなのでこの日は観光に出かけることにした。電車にのってリスボンへ、この地名はイギリス人が命名らしく、現地では「リシュボア」と呼ぶらしい。 テージョ川という川のそばにある「ベレンの塔」、「発見のモニュメント」といった観光名所を巡った。 日本へキリスト教や鉄砲を伝えに行った伝道師たちがかつてこの場所から旅立ったことを思うと、不思議な臨場感に包まれた。 その日の夜、ペニーシェに戻ってリオとフェルナルド兄弟と食事をした。 彼らの話によるといよいよヨーロッパもサーフィンブームの到来でドイツやスイスなど海のない国からもサーファーが来るようになってきたそうだ。 ポルトガルは海鮮料理が安くて新鮮、名物はイワシの塩焼き、リゾットや貝の塩茹でとかもあって最高としか表現できなかったほどだった。帰り際にリオが明日の午後、ペニーシェ近郊にあるサーフポイントを案内してくれると言ってくれた。 明朝、吹き続けていた風がおさまった。波も頭くらいまでサイズアップしていたので目の前のビーチでお昼までサーフィンをした。午後はリオのクルマでのポイントガイド。 ビーチブレイクやリーフのポイントブレイク、どこもサイズが頭以上あって良い感じだ。最後に案内してくれたのがスーパーチューブス。WCTの会場にもなるポイントだ。 サイズは胸~肩くらいだが完璧にチューブになっている。 リオに、ここでやろうと促された。さっそくウェットスーツに着替えて海へ。 サイズが小さいのでテイクオフは楽、タイミングを合わせるだけでチューブに入れる良い波で最後を締めくくった。 この旅は10日間の行程だったけどとても満足することができた。 波だけを求めるならインドネシアやモルジブの方が良いが、サーフィンというフィルターを通してその国の文化やローカリズムに触れるのもまた旅の醍醐味だとおもっている。
ポルトガル編
今回は2005年に行ったポルトガルへの旅のお話 日本からポルトガルまでは直行便がないため、ポルトガルの首都リスボンについたのは、日本を出発して2日後の夜中だった。今回の目的地は首都リスボンからタクシーで1時間ほど北上したペニーシェという町。あらかじめ日本から予約をしていたホテルに着いたのは夜中の3時。長時間の移動で疲れていたこともあって、この日は歯も磨かずに倒れるように寝てしまった。翌朝10時、まぶしい太陽の光で目をさます。部屋の窓から外を見下ろすとそこには、真っ白なビーチと、オレンジ色の屋根をつけた真っ白な家々、そして石畳の道路が見えた。既にビーチにはたくさんのヨーロピアンたちが日光浴を楽しんでいた。出発前に想像していたヨーロッパのビーチリゾートそのままだった。朝ごはんのフランスパンサンドイッチを食べ、歩いて10分くらいのところにあるペニーシェサーフキャンプのオフィスに情報を聞きに出かけた。 出迎えてくれたのは社長のリオとフェルナルド。 リオは体がでかいがメローで優しいそうな性格、生まれも育ちもペニーシェで、本業はポルトガルでは数少ないシェイパーの一人だ。今回はこの二人が、僕のサポートをしてくれることになった。2日後位からサイズアップしてくるという。帰る日までには良い波に乗りそうな気がした。この日はペンションの目の前であるビーチブレイクでサーフすることにした。 波は腹サイズ、水温は3mmジャージでちょうど良いくらい。 波質は千葉のビーチブレイクのようだけど、海から見えるロケーションはVery Europeanだった。 2日目も朝早くから波チェックに出るがやはり波が小さく、風もオンショアにまわってノーサーフ状態。せっかくなのでこの日は観光に出かけることにした。電車にのってリスボンへ、この地名はイギリス人が命名らしく、現地では「リシュボア」と呼ぶらしい。 テージョ川という川のそばにある「ベレンの塔」、「発見のモニュメント」といった観光名所を巡った。 日本へキリスト教や鉄砲を伝えに行った伝道師たちがかつてこの場所から旅立ったことを思うと、不思議な臨場感に包まれた。 その日の夜、ペニーシェに戻ってリオとフェルナルド兄弟と食事をした。 彼らの話によるといよいよヨーロッパもサーフィンブームの到来でドイツやスイスなど海のない国からもサーファーが来るようになってきたそうだ。 ポルトガルは海鮮料理が安くて新鮮、名物はイワシの塩焼き、リゾットや貝の塩茹でとかもあって最高としか表現できなかったほどだった。帰り際にリオが明日の午後、ペニーシェ近郊にあるサーフポイントを案内してくれると言ってくれた。 明朝、吹き続けていた風がおさまった。波も頭くらいまでサイズアップしていたので目の前のビーチでお昼までサーフィンをした。午後はリオのクルマでのポイントガイド。 ビーチブレイクやリーフのポイントブレイク、どこもサイズが頭以上あって良い感じだ。最後に案内してくれたのがスーパーチューブス。WCTの会場にもなるポイントだ。 サイズは胸~肩くらいだが完璧にチューブになっている。 リオに、ここでやろうと促された。さっそくウェットスーツに着替えて海へ。 サイズが小さいのでテイクオフは楽、タイミングを合わせるだけでチューブに入れる良い波で最後を締めくくった。 この旅は10日間の行程だったけどとても満足することができた。 波だけを求めるならインドネシアやモルジブの方が良いが、サーフィンというフィルターを通してその国の文化やローカリズムに触れるのもまた旅の醍醐味だとおもっている。
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コスタリカ編
今からおよそ30年前の1995年、中米のコスタリカに行った時のお話 エンドレス サマーという映画に魅せられて、コスタリカに興味を持った。国の名前の由来を調べてみたら黄金の海岸という意味だった。 当時、働いていた自由が丘のスキーショップに来店した日系カナディアンのマキトという青年と仲良くなった。 ジャングルがすぐ近くにあって野生動物が身近、そして軽い犯罪はあるけどとても治安が良い事。 こんなアドベンチャーな話を聞いてすごく興味がわいたので、友人と二人で行ってみようかと思いました。 経由地につくとレンタカーを借りてハンティントンビーチを目指した。 フボードを購入したら、そのボードでハンティントンビーチのピアでサーフィンを楽しんだ。ここは僕にとってサーフィンという言葉を考えるに一番効果のある場所だと思う。 フォーカスカのサンホセ空港に到着したらレンタカーを借りてレンタカー屋の兄さんに海の方を指さしてもらって車を走らせた。夜だったので不安になりながら2時間(100㎞ )ドライブしてハコー(ジャコ)という町にたどり着いた。 ハコーは空港から一番近いサーフタウンだとマキトが言っていたのを思い出した。町を眺めているとたまたま空きの標識を見つけたのでそこに宿があることにした。ナビも地図も道路指示だけを気をつけて行っていたので安堵感と達成感でとても充実した気分だった。 朝、目が覚めましたと、ハコーやヘルモサビーチをチェック、ハコーは優しい波質だったがヘルモサはリップの厚いパワーのある波質だった。この波を二日間堪能したのち、ハコーからマキトがキャンプをしていたというドミニカルという村に向かった。 4WDで走れないほどの悪路を走破した。途中でエスタリロスというポイントを偶然見つけた。波が小さくて誰でもサーフィンをしていたなかったが素晴らしいロケーションだし、お腹が空き始めていたのでビーチにあるレストランで食事をしたことに。 レストランのウェイターがロータイドになれば波が上がるからもう一時間待ってみろと言うので半信半疑でゆっくりして胸~肩くらいのファンウェーブがブレイクし始めたんじゃないか!とっさにトランクスに歩いて海にジャンプした。 優しい波とヤシの木に囲まれた南国のビーチブレイクの光景は30年経った今でも思い出に残っている。 美しい自然と雰囲気が盛り上がったのでここの近くで1泊した。 そして俺たちはまたドミニカルに向かった。 ハカラドミニカルはおよそ100㎞、しかしほとんどが舗装されていない悪路だったのでかなり時間を要した。 ドミニカルは数件の宿とレストランがあるちいさな村だった。 波はヘルモサのようにパワーのある波で中級者であれば楽しめる波だった。 その後も2度ほど再訪問して北部のウィッチーズロックやプラヤネグラなど行ってみた。 どこも素晴らしいポイントだった。 PuraVida 写真:フェリペ・サンチェス写真CostaRicaT2
コスタリカ編
今からおよそ30年前の1995年、中米のコスタリカに行った時のお話 エンドレス サマーという映画に魅せられて、コスタリカに興味を持った。国の名前の由来を調べてみたら黄金の海岸という意味だった。 当時、働いていた自由が丘のスキーショップに来店した日系カナディアンのマキトという青年と仲良くなった。 ジャングルがすぐ近くにあって野生動物が身近、そして軽い犯罪はあるけどとても治安が良い事。 こんなアドベンチャーな話を聞いてすごく興味がわいたので、友人と二人で行ってみようかと思いました。 経由地につくとレンタカーを借りてハンティントンビーチを目指した。 フボードを購入したら、そのボードでハンティントンビーチのピアでサーフィンを楽しんだ。ここは僕にとってサーフィンという言葉を考えるに一番効果のある場所だと思う。 フォーカスカのサンホセ空港に到着したらレンタカーを借りてレンタカー屋の兄さんに海の方を指さしてもらって車を走らせた。夜だったので不安になりながら2時間(100㎞ )ドライブしてハコー(ジャコ)という町にたどり着いた。 ハコーは空港から一番近いサーフタウンだとマキトが言っていたのを思い出した。町を眺めているとたまたま空きの標識を見つけたのでそこに宿があることにした。ナビも地図も道路指示だけを気をつけて行っていたので安堵感と達成感でとても充実した気分だった。 朝、目が覚めましたと、ハコーやヘルモサビーチをチェック、ハコーは優しい波質だったがヘルモサはリップの厚いパワーのある波質だった。この波を二日間堪能したのち、ハコーからマキトがキャンプをしていたというドミニカルという村に向かった。 4WDで走れないほどの悪路を走破した。途中でエスタリロスというポイントを偶然見つけた。波が小さくて誰でもサーフィンをしていたなかったが素晴らしいロケーションだし、お腹が空き始めていたのでビーチにあるレストランで食事をしたことに。 レストランのウェイターがロータイドになれば波が上がるからもう一時間待ってみろと言うので半信半疑でゆっくりして胸~肩くらいのファンウェーブがブレイクし始めたんじゃないか!とっさにトランクスに歩いて海にジャンプした。 優しい波とヤシの木に囲まれた南国のビーチブレイクの光景は30年経った今でも思い出に残っている。 美しい自然と雰囲気が盛り上がったのでここの近くで1泊した。 そして俺たちはまたドミニカルに向かった。 ハカラドミニカルはおよそ100㎞、しかしほとんどが舗装されていない悪路だったのでかなり時間を要した。 ドミニカルは数件の宿とレストランがあるちいさな村だった。 波はヘルモサのようにパワーのある波で中級者であれば楽しめる波だった。 その後も2度ほど再訪問して北部のウィッチーズロックやプラヤネグラなど行ってみた。 どこも素晴らしいポイントだった。 PuraVida 写真:フェリペ・サンチェス写真CostaRicaT2
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ハワイ編
今回はハワイにサーフトリップに出かけた時のエピソードです。 1998年12月、俺は仕事上で取引のあったある雑誌社の忘年会に招待された。モノ系の雑誌だったのでビンゴにはたくさんの景品が協賛されていた。なかなか揃わないなぁと思っていたら、なんと最後の景品一等のハワイ旅行5日間を当ててしまった。
ハワイ編
今回はハワイにサーフトリップに出かけた時のエピソードです。 1998年12月、俺は仕事上で取引のあったある雑誌社の忘年会に招待された。モノ系の雑誌だったのでビンゴにはたくさんの景品が協賛されていた。なかなか揃わないなぁと思っていたら、なんと最後の景品一等のハワイ旅行5日間を当ててしまった。